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第7回 東三河サイエンスカフェ 記録
2008年2月7日 開催

第7回カフェ風景1第7回カフェ風景2第7回カフェ風景3

江戸時代をのぞいてみよう
−川柳をとおして知る江戸の暮らし−
梅藤 仁志 先生

第7回レポート用カフェ風景1 red.ball 司会挨拶

 司会より、非常時の対応等諸注意、本カフェのすすめ方説明、 ゲストスピーカーの紹介を行ないました。 【18:30開始】

red.ball 基調スピーチ

 梅藤先生は、パワーポイントと配布資料をもとに、 55分ほどのお話しをしてくださいました。 以下は、同スピーチの内容をまとめたものです。 スライド資料(図表等)は、先生よりご提供いただいたものです。 これらスライドの著作権は、梅藤先生にあります。 当日のスライド資料は、このほかにもたくさんありましたが、 その一部のみ掲載しております。

red.ball

第7回レポート用カフェ風景2  挨拶。

 サイエンスカフェということなのですが、 少し趣のちがったところで、 川柳をとおして江戸の生活を見ていきたいと思います。

slide no.001  これは、つい先日発表された、今年度のサラリーマン川柳です。 最初の「箸つけたおれを見てから食べる妻」というのは、 まさにジャストミートな作品ですね。 その次の「張り替えは昔障子で今、日付け」や、 「安い値のガソリン探し遠出する」というのもそうですね。

 こちらのスライドのものも、原油高であったり、防衛省の問題であったりと、 川柳というのは、世相をうつしとったものというイメージです。

slide no.003  はじめに少し歴史のお話しをしようと思います。 川柳そのものは、江戸時代のものですが、もとは中世の連歌からはじまっています。

 連歌というのは、5・7・5に7・7をつけ、 7・7に5・7・5をつけていくという、付合(つけあい)というものです。 みんなであつまって行なう、座の文学としてはじまったものです。 したがって、もともと余興としてのもので、滑稽、頓知を楽しむ、というものでした。

 ところが、だんだんとその評価があがってきまして、 和歌の余興であったものが、和歌と肩を並べるようになってきました。 これには、南北朝時代の摂政関白であった二条良基の存在があります。 彼は、自身も連歌をつくったのですが、 いわゆるパトロンのような働きもしまして、菟玖波集という連歌集もつくっています。

 ただ、なんでもそうですが、隆盛を極めると、だんだん退化していくものです。 連歌もそうでして、質的な低下、卑俗化していきます。

 そこで、心敬(しんけい)という人があらわれ、 また、連歌がよくなっていきます。 続いて、飯尾宗祇という人がでてきて、 水無瀬三吟百韻という連歌を編んで、ここにいわばピークをむかえます。

 そうしてピークをむかえますと、また形骸化していき、堕落していきます。

 そうすると、また原点にもどろう、という動きがでてきます。 それが、この山崎宗鑑や荒木田守武といった人たちの活動です。 もともと、連歌というのは、おもしろいものだよ、という立場です。

 江戸時代にはいりますと、松永貞徳という人が貞門派というのをおこします。 これは、俳諧の連歌というもので、連歌からいわば独立したものです。

 さらに、西山宗因という人が、談林派というグループをつくります。 伝統的な俳諧の流れを破壊しよう、庶民の文芸へとかわっていこう、というものです。

slide no.008  そして、こうした流れを完成させていったのが、みなさんご存じの松尾芭蕉です。 芭蕉自身も、さび、しおり、ほそみ、かるみ、 といった俳諧の境地を次々と開拓していって、まさに芸術に仕上げていきました。

 ところが、芭蕉から少し時代がさがってきますと、雑俳(ざっぱい)といいまして、 本格的な芸術に対し、おもしろいものをやろう、というものがでてきます。 そのなかに、前句付けというあそびがあります。 川柳というのは、実はこの前句付けから独立していったものです。

 では、その前句付けというのはどういうものか、ということですが、 まず、前句、7・7を出しておきまして、それに5・7・5をつけていく、 というものです。

 例えば、この前句「こわいことかなこわいことかな」がでますと、 「かみなりをまねて腹掛けやっとさせ」といったようなものをつけていくわけです。

 こうした前句に付句をつけていくものですが、 いつの時代も同じで、これが懸賞になっていきます。 最初にあげたサラリーマン川柳と、ちょっと形はちがいますが、 江戸時代にも同じようなものがあったわけです。

slide no.014  次に、川柳というのがいつ頃のものかを見ていきましょう。 芭蕉は、1644年から1694年の人です。 芭蕉の亡くなった後、少しすると、 曽根崎心中という門左衛門の浄瑠璃が演じられます。 享保の改革は、1716年からです。 そのおよそ50年後、俳風柳多留(やなぎだる、柳樽)という川柳集が編まれます。

 この柳樽を編んだのが、柄井川柳という人です。 もともと川柳というは、川柳点の略称でして、 柄井川柳というのは、点者、 すなわち、川柳点、川柳の点数をつける人だったわけです。

 この柄井川柳という人は、 浅草の町名主で、40歳ごろから前句付けの点者になっています。

slide no.017  これは、そもそも川柳と俳句とでは、何がちがうのか、というスライドです。

 全部で17音というところは、同じです。 俳句には、季語、季題という決まりがあって、季節感をうたうものですが、 川柳にはそうした制約はありません。 「かな」とか「や」という切れ字も、川柳では要求されません。 自然とか、人のこととか、こだわりはなく、なんでも好きなことをうたってよい、 とされているのが、川柳の大きな特徴です。

 その何をうたうか、ということですが、風景描写もありますが、 人事句といって、人の世のことをうたうのがあります。

 この人事句には、いわばランクがありまして、 高番句というのは、今の新聞でいいますと一面を飾るような政治・経済ものです。 中番句は、社会面にとりあげられるような内容です。 末番句というのは、艶種、ゴシップですね。

slide no.019  川柳の最大の特徴を、一言であらわすとしますと、 この「うがち」という言葉がよく用いられます。

 うがちというのは、もともと穴をあける、ということから、 隠れている真実をえぐり出して、川柳に表現する、ということです。 別のとらえ方、言い方をしますと、あるものを他のものに見立てる、 ということであったり、想像をたくましくする、憶測をいったり、 皮肉をいったり、からかいをいったり、ということです。 こうしたことが川柳の「気分」なんですね。

 以上のようなことを頭の片隅においていただいて、 本題に入っていこうと思います。

 お手元の「江戸時代をのぞいてみよう」という資料をご覧ください。

 最初は、現代から、サラリーマン川柳です。 さきほど、今年のをお見せしましたが、 お手元資料には平成8年から19年までのものをのせてあります。

 「ダイエットグラムで痩せてキロで肥え」 一食二食へらしても、あとでどんとリバウンドがくるというのを、 わたしも経験したことがあります。

 「パパ似だと言われ泣き出すわが娘」 まさにわたしも、泣かれはしませんでしたが、 娘にいやな顔をされたことを覚えております。

 「ストレスはなぜか血となる肉となる」 そのときそのときの風俗といいますか、世相をうたっているのが、 このサラリーマン川柳ですね。 身につまされるものもあれば、クスッとわらえるものもあります。

 それでは、江戸時代の川柳にはいっていきましょう。 資料では、5ページからです。

 まず有名なところでは、「役人の子はにぎにぎをよく覚え」 まあ、もらいものをスッとにぎることを、親に習うということでしょうか。 ただ、この当時は、それほど悪意をもって、 このようにうたわれたわけではないようです。 役人といってもいろんな役人がいまして、 当時もっとも人気があったのは、与力でした。 気っ風がよくて、町人ことばをしゃべって、町人の味方だったんですね。 そうした背景を知った上で、川柳を楽しんでいただければと思います。

 「一の富どこかのものが取りは取り」 一の富というのは、宝くじの一等賞のことです。 あたりくじをだれかは取っている、ということですね。 一の富というのがどれくらいの金額だったかといいますと、 現在のお金に換算して、200万円ぐらいだったようです。

 次に、「江戸のまち 初春から初夏の風景」と題したところを見てください。 今日、2月7日は、旧暦ではちょうど1月1日、元日、初春なんですね。

 「嘘よりも八町多い江戸の町」 江戸八百八町といいますね。 実際には、千いくつあったようです。 人がふえて、町がどんどんふえていったということです。

 「元日の町はまばらに夜が明ける」 正月の朝、ゆっくりしている人もいれば、初日の出を拝む人もいる、 ということで、いつもとちがって、まばらに夜があけるということです。 なかには、借金とりから隠れるために押入れに閉じこもっていて、 正月になってやっと表にでてくる、といった人もいたようです。

 「若水を地主のあとで大家くみ」 元日の朝くむ水を若水といいます。 地主と大家さんの関係ですが、 今とちがって、当時の大家さんというのは、雇われ管理人のような人なんですね。 当時の長屋は、6軒の棟割長屋がむきあって、 あわせて12軒でひとつの町内のようになっていました。 落語や時代劇では、大家さんというのは、店賃をとりにきたり、 町内の世話役さんのように描かれることが多いのですが、 実際、いろいろな仕事があったようです。 そのひとつが人別帳の記録で、地方から出てきた人が長屋に住まうと、 その人がどこから出てきた人かをきちんと記録して届けていました。 今でいう、役所の戸籍係のような仕事もしていたわけです。 当然、店賃のとりたて、管理も行なっていましたし、身元引受人のような役割、 地方から出てきた人が仕事をするときの保証人のようなこともしていました。 よくいわれる「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然」というのは、 たしかに実態を描いていたわけです。

 「宝船だんだん波が荒くなり」 今日は大人の方ばかりですので、こういう句もよろしいでしょう。 宝船といいますと、七福神の絵に、 「長き夜の遠の眠りのみな目覚め波乗り船の音のよきかな」 という回文の歌を書き添えたものを枕の下にしいて、初夢をみると、 その年、よいことがあるといわれています。 その年初めて夫婦相和する夜でもありますので、こういう句がよまれています。

 「屠蘇機嫌子の愛想に旅へたち」 愛想というのは、おつきあいぐらいに考えていただければよろしいでしょう。 五十三次の双六で旅にでていく、そのつきあいで、 正月に子どもの相手をしてやっている、そういう様子をよんだ句ですね。 今とかわらない風景です。

 「三日食う雑煮で知れる飯の恩」 「飯はよいものと気のつく松の内」 江戸の人たちが何を食べていたかといいますと、 江戸っ子は銀シャリが大好き、白いご飯が大好きだったんですね。

 視点をかえますと、白いご飯を食べられた、ということですね。 地方から租税として、お米がどんどん江戸にはいってきます。 はいってきたお米がならんでいたのが、蔵前ですね。 蔵前には米倉がならんでいました。 さむらいもお米を売ってお金にしますから、江戸にはたくさんお米があったんですね。 ですから、みんな白いご飯を、わりあい豊かに食べられたんですね。

 ところが、反対にビタミンB1不足になってしまって、 脚気にかかる人が多かったようです。 江戸患い、といいまして、地方から出てきた人が、江戸で脚気になる、 そして地方に帰るとなおる、ということがあったようです。

 それでは、何をおかずにしていたのか、ということですが、 「納豆とシジミに朝寝起こされる」 という句があります。 これは、納豆売り、シジミ売りが、朝やってくるものですから、それに起こされる、 ということですね。

 当時、納豆があるくらいですから、お豆腐がありました。 それから、おから、当時は「切らず」といいましたが、 そして、油揚げもありました。 魚介類では、江戸前でとれるもので、はまぐり、あさり、 あおやぎ、ばかがいの身ですね。

 野菜では、にんじん、だいこん、さといも、きゅうり、なす、 といったものが、庶民の食卓にあがったようです。

 魚では、いわし、さんま、かつお、などですね。 かつおについては、後で少し詳しくふれます。

 では、どんなおかずが人気があったか、といいますと、 おかず番付というものが本になっていました。 それを見ますと、行司には、たくわん、梅干し、ぬかみそ漬け、 世話役には、でんぶ、みそ漬け、とうがらし、とあります。 これらは、年間とおしてあるものですね。

slide no.031  まず、東方、野菜など動物性でないもの、精進方、ですね。 大関に豆腐、それから、こぶとあぶらげを煮たもの、 きんぴらごぼう、にまめ、ひじきの白和え、 今と何もかわらないですね。

slide no.032  では、西方、魚の方はどうでしょうか。 大関が、めざしいわし。 あっ、当時は横綱がありませんでした。 大関が最高位です。 関脇は、あさりのむき身と切り干し大根を煮たもの、 それに、芝エビのからいりしたもの。 こういったものが、おかずとしてならんだようです。

 さて、川柳の方に戻りましょう。 松がとれる前に、藪入りというのがありました。 なかなか休みをもらえない江戸の奉公人ですが、正月とお盆に休みがもらえました。 休みをもらって、親元に帰るんですね。 これを藪入りといいました。

 おもしろいことに、この藪入りですが、男性は1日だけなんですね。 一方、女性は3日もらえたそうです。 そこで、 「藪入りの二日は顔をよそにおき」 東京の大学にいっている娘が、実家に帰ってきます。 帰ってくるのはいいのですが、ほとんど外出して、友達と遊んでいる、 というのと同じですね。 3日間の休みのうち、2日間はあちこち出歩いている、という句です。

 次に、初午というのがあります。 2月の最初の午の日を初午といいます。 「だだっ子に柄樽をつける初の午」 柄樽というのは、手で持つところのついた樽です。 朱塗りのものをご覧になったことがあると思います。 初午というのは、子どもに手習いをさせるために、 寺子屋などに通わせる最初の日とされているんですね。 2月というのは旧暦ですから、ちょうど3月の初旬あたりになります。 今とほとんど同じですね。 柄樽は、先生にもっていくおみやげです。

 「初午の日から夫婦はちっと息」 ようやく子どもが小学校にあがって、手がかからなくなった親御さんの気持ちですね。

 初午を過ぎて3月になりますと、ひなまつりがあります。 「初のひな心当たりが二三軒」 今とまったく同じですね。 おじいちゃん、おばあちゃん、どんなのを送ってくれるかねぇ、 というところでしょう。

 「白酒もとしまのほうが味がよし」 「としま」をひらがなで書いているのがポイントです。 としまというのは、鎌倉の方にあった白酒をつくるお店、としま屋のことです。

 ひなまつりがおわると、次は花見ですね。 「花に背を向けてだんごを食っている」 みなさん、いろはかるたの「花より団子」をご存じと思いますが、 この川柳があって、その後に「花より団子」というかるたができたそうです。 川柳というのは、流行の最先端だったんですね。

第7回レポート用カフェ風景3  「聞いたかと問われて食ったかと答え」 「目と耳は只だが口は銭がいり」 さて、これはいったい何をうたっているのでしょうか。 …。 これには、山口素堂の有名な 「目に青葉山ほととぎす初がつを」 という俳句が前提にありまして、青葉を見るのもタダ、ほととぎすを聞くのもタダ、 でも、初がつをは…、という句ですね。

 「そこが江戸小判を辛子みそで食い」 初鰹が江戸に入ってきたとき、2両したというんですね。 1両が12万円ぐらいといわれていますから、 鰹1尾を30万近いお金で買って食べているわけですね。 それが江戸だよ、粋だよ、という句です。

 「初鰹まだ舞台から落ちられぬ」 そのように鰹が高いものですから、まだまだ清水の舞台から飛び降りて、 というわけにはいかない、という句です。

 「葬礼を見て初鰹値ができる」 そうはいっても、たまたまお葬式の列を見てしまうと、 生きているうちに食べておこうか、ということになるというわけです。

 鰹の時期を過ぎますと、端午の節句です。 「端午重陽槍栗の節句なり」 これは、まさに洒落ですね。 端午の武者人形がもっている槍と、重陽の節句、9月9日、これは栗の季節です。 それでやりくりですね。 やはり節句にはお金がかかりますので、それをかけているわけです。

 ここまでは季節を順に追ってきましたが、ここからはランダムです。 「たいがいにしろと数の子ひったくり」 数の子といいますと、少し前までは、黄色いダイヤなどといわれて、 とても高価なものとお考えかもしれませんが、 実は江戸時代には豊富にありました。 そうすると、この句の意味はどういうことかといいますと、 その安い数の子でご飯がいくらでも食べられてしまうわけですね。 ところが、ご飯は豊富にありましたが、さほど安かったわけではありません。 それで、高いご飯を数の子で何杯も食べるな、という意味なんですね。 こういうあたり、今とまったく逆の意味、逆の感覚の句です。

 「おそろしきもの食いたき雪の空」 「片棒をかつぐ夕べのふぐ仲間」 後の句は、壮絶ですね。 昨夜はいっしょに鍋のふぐをつついたのに、 今日は棺桶の片棒をかついでいる、ということです。

 それでは、資料の8ページの方に進んでいきましょう。 ここから、また少しスライドを使ってお話しをします。 実は、江戸時代というのは、外食産業が非常に盛んだったんですね。 もちろん、屋台なんですけれども。

 理由は、いろいろあります。 ひとつは、あとでさらに詳しくお話ししますが、 江戸の人口の男女比がすごくいびつだったんですね。 1対5、もちろん、男性の方が5です。 それは、地方から仕事をもとめて働きにくる、 大坂の商人が支店、出店をだす、地方から武士がくる、といったことで、 圧倒的に男性が多かったんですね。 また、女性が少ないので、生まれてくる子どもの数も少なくって、 当然女の子も少なくなるわけです。 そうすると、外食する男性が多くなるわけです。

 明暦の大火をきっかけに、町が整備されます。 その時、奈良茶飯屋というのができました。 そこでは、一汁一菜で50文、 10文が100円ぐらいですから、500円ぐらいですね。 これがすごくヒットしまして、栄えていきます。

 もうひとつ、江戸前といいまして、 大坂からやってくるものに反発する意味もあって、 江戸湾でとれたものが人気になります。

 それから、天麩羅、にぎり鮨が人気になります。

 そのネタがどういうものだったかといいますと、 江戸前の小鰭(こはだ)、鯵(あじ)、穴子、鱚(きす)、細魚(さより)、 烏賊(いか)、蛸、蛤などですね。 1個4文から8文でしたので、今のお金で40円から80円ぐらいですね。 この頃のお鮨は、今よりご飯が多かったので、ふたつみっつたべると、 もうお腹いっぱいになるようでした。

 「鮨のめし妖術という身で握り」 鮨をにぎる手つきが、ちょうど歌舞伎などでみられる、 妖術つかいの手つきに似ていることからよまれたものです。

 「握られて出来て食いつく鮨の飯」 にぎってもらったらすぐに食べないと鮮度が落ちる、ということですね。

 さらに、江戸の食べ物で忘れてはいけないのが、蕎麦です。 もともとは、そば粉を熱湯でこねたそばがきというものでしたが、 上方のうどんをまねて、麺状にして食べるようになったようです。

 食べ方は、もりとかけの2種類があったようです。 おもしろいことに、人の考えることは同じようでして、時代が少しさがると、 天ぷらうどん、天ぷらそば、しっぽく、 といった今と変わらない食べ方をしていました。

 「蕎麦を打つ音も馳走の数に入り」 そばは、うちたて、できたてがおいしいといいますが、 そばを打っている音を聞きながら、お酒をいただいてる、 という様子がうかんできます。

 お酒のお話しを少ししますと、江戸の人は江戸の文化に誇りをもつのですが、 お酒だけは上方、京都のものの方がおいしいんですね。 それで、上方のお酒を江戸に運んでくるんですが、 船で運ぶのに、遠州灘をとおってくるわけです。 その時、富士山の見えるところをとおってくることから、 富士見酒、とよんで、上級のお酒の代名詞になっていました。

 資料の方にもどります。 「ささがしの牛蒡のそばで皆殺し」 ささがしというのは、ささがきのことです。 ですから、ささがきごぼうといっしょに食べるもので、 この皆殺しは、どじょうのことです。

 「天麩羅の指を擬宝珠へひきなすり」 先ほど天ぷらが人気といいましたが、 この句でわかることは、当時、天ぷらを手づかみで食べていたということですね。 屋台で天ぷらを手づかみで食べて、その手がベトベトしますから、 その手を橋の擬宝珠になすりつける、という句です。

 江戸で擬宝珠のある橋は、日本橋ともうひとつだけでした。 ですから、天ぷらの屋台がでるのが、 そうしたにぎやかなところであったこともよみとれます。

 「おふくろの留守に紅葉を煮てくらひ」 「ご隠居は嫁のいやがる薬くひ」 これは、哺乳動物の肉を食べることなんですね。 当時はまだ、けものの肉を食べる習慣がなくて、きらっていましたから、 こういう言い方をしました。 紅葉は、鹿の肉ですね。 薬食いというのも、けものの肉を食べることです。 滋養をとる、ということですね。

 ただ、そうはいってもにおいがしますから、 「今度から貸してやるなと鍋を捨て」 お隣さんがおこっている、という句ですね。

 資料9ページの「親子」というところをご覧ください。 ここには、子どもが生まれてから、 親御さんが亡くなるというあたりをまとめてあります。

 「子をもって近所の犬の名を覚え」 今でもそうですが、 初めて子どもをもって、その子どもを連れて街にでるようになりますと、 今まで知らなかった人と知り合いになる、といったことがあります。

 「はえば立て立てば歩めの親心」 有名ですね。

 「竹の子のようだとあげをおろして居」 着物のすそあげをしたのが、 子どもが竹の子のようにだんだん大きくなるので、 それにあわせて、はやいねぇなどと言いながら、すそをおろしていく、 その親のうれしい気持ちをうたったものです。

 反面、子どもが大きくなってくると、いろいろな問題も起こってきます。 「ちっとずつ母手伝ってどらにする」 どらというのは道楽息子のどらですね。 お父さんにないしょだよ、などと言いながら、 お母さんが息子にこづかいをおげていると、子どもがつけあがっていって、 どらになってしまう、というお話しです。

 「魯の国の人と息子は付き合わず」 魯の国の人とは、孔子のことですね。 孔子の書物を読む、勉強する、ということを全然しない息子ですね。

 「あの金をどうするのだと息子いい」 親父がためこんでいるあの金は、いったいどうするつもりなんだ、 おれにくれよ、というどら息子ですね。 そして、その息子は、 「箸おくかおかぬに息子ついと出る」 お金をもらうと、ついとどこかに、吉原などにいってしまうわけです。

 「人は人なぜ帰らぬとおやじいい」 これもそうです。 吉原の居続けのことをうたっています。 帰ってこない息子をしかっているお父さんの句です。 そう言われた息子はどうかといいますと、 「息子の耳は馬面は蛙なり」 馬の耳に念仏、蛙の面に小便、ということですね。

 そうすると、親はやっぱり親馬鹿ですから、 「親の闇ただ友達が友達が」 つい最近も有名な女優さんにあった話しですね。 うちの子は悪くない、友達が…、というわけです。 これももとの歌がありまして、 「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」 親の道というのは決して闇ではありませんよ、 ただ子どものことを考えるとついつい心の闇にはいってしまうんですよ、 という歌です。 これが下敷きになった句です。

 そんなどら息子であっても、 「どらにあいたいが末期の願いなり」 最後に会いたい、というのが親の願いです。 子どもにしてみれば、 「孝行のしたい時分に親はなし」 「しかられた事も恋しき魂祭り」 後の祭り、ということです。

 次は、「結婚」の句です。 おもしろいことに、仲人さんをよんだ川柳がけっこう多いんですね。 「仲人に聞けば姑は皆ほとけ」 「仲人は鬼を千疋殺すなり」 「仲人の舌はぬかるる覚悟なり」 仲人さんというのは、覚悟の上で、 いいことばかり聞かせてくれるもののようです。

 そうして、話しが進んでいき、いよいよとなりますと、 「丸綿をかぶせながらも言い含め」 娘さんに丸綿をかぶせながら、お母さんがいろいろ言い聞かせている様子です。

 嫁にいって、里帰りをしますと、 「声色で我をしかって里で泣き」 娘が姑のまねをして、わたしこんな風にいわれるのよ、と泣いて話しをし、 「そうであろ そうであろうと里の母」 お母さんがなぐさめているんですね。

 このように嫁と姑の話しというのは、当時も今もあまり変わらないようです。 なかには、いいお姑さんもおりまして、 「姑となるより嫁の気に返り」 でも、やっぱり一般的には、 「姑は嫁の時分の意趣がえし」

 そんなこんながあって、 「死に水を嫁に取られる残念さ」 そして、うらみつらみが積もりつもると、 「ぼた餅をいさぎよく食う嫁の里」 この時代、ぼた餅を四十九日につくって食べる、という習慣がありました。 お姑さんが亡くなって四十九日に、お嫁さんの実家では、 ぼた餅をつくって思う存分食べる、という句です。

 次の「夫婦」のところは、後でお読みになってください。

 「吉原」の句にいきます。 吉原は、江戸時代の遊郭ですね。 葦のはえた湿地につくったもので、葦が悪し(あし)に通じるので、 吉(よし)にいいかえた、という説があります。 もともと今の日本橋あたりにあったのですが、 大火で、今の台東区、浅草のあたりにうつりました。 そちらを新吉原といったりします。

 はじめの方の句をみていきますと、細見(さいけん)ということばがでてきます。 細見というのは、ガイドブックのことなんですね。 吉原のどこの店に、どんなおいらんがいるか、そういう案内です。

第7回レポート用カフェ風景4  その句には、醤油の印とか、山だらけ、とありますが、 これは細見に用いられた記号のことです。 入山形の紋に星をひとつ、ふたつと描いて、おいらんのよしあしをしめしたんですね。

 「細見で見ても北国山だらけ」 北国というのは、吉原の別名です。 江戸の中心からみて、北の方にあったからです。 江戸から北の方といいますと、地図で見ても山だらけですし、 細見で見ても山だらけ、ということです。

 「細見を四書文選の間に読み」 高校生が教科書、勉強の合間に、そういう本を読むのと同じですね。

 「死ぬときの枕の方へ四つ手駆け」 四つ手というのは、 四方に竹がある簡単なかご、時代劇でよく見るあのかごのことです。 死ぬときの枕というのは北の方角ですから、北の方へかごで急いでいる、 この北というのは、さきほどの北国と同じ意味ですね。 つまり、吉原へかごで行く様子をよんでいます。

 同じように、 「後を見ぬ人の乗るゆえ猪牙という」 猪牙(ちょき)というのは、猪牙舟という小さな舟のことです。 隅田川を舟で吉原へ向かう様子です。

 「土手を行くらんと女房歌人なり」 これは、伊勢物語の筒井筒という話しがもとにあります。

 その次のみっつの句には、ありんす、ということばがでてきます。 これは、吉原のさとことば、くるわことばですね。 これも時代劇などでお聞きになったことがあると思います。 こうしたことばには、ふたつの意図があったようです。 ひとつは、吉原が別世界であると客に感じさせる、イメージさせる効果です。 もうひとつ、こちらが本当のねらいと思いますが、 遊女たちは地方から売られてきた人たちで、そのお国なまりをかくすためです。 また、このありんすのような言葉は、吉原全体で共通というものではなく、 お店お店でちがっていたようです。 ですから、言葉を聞けば、どこの店かわかるようにもなっていたようです。 いずれにしても、少し悲しい話しですね。

 「おいらんがいっちよくさく桜かな」 もともと、おいらんというのは、おいらの姉女郎、の意味です。 妹分の女郎が姉女郎を「おいらが」とよんでいて、 「おいらん」になった、ということです。 いっちよく、というのは、一番の、ということです。 当時、吉原は桜の名所でした。 その桜は、おいらんがいわばスポンサーになって植えたものなんですね。 それで、この句は、妹女郎が、自分の姉女郎の植えた桜が一番だ、 とよんでいるものです。

 吉原以外のそうした場所は、岡場所といいまして、 江戸四宿である品川、内藤新宿、板橋、千住や、深川などにありました。 吉原だけが幕府公認ということで、プライドもありました。 「十人が十人初会食べんせん」 初会というのは、客が遊女とはじめて会うときのことです。 これは、本当に会うだけです。 二回目を、裏を返すといいます。 このときも、一言二言ことばをかわすだけです。 そして、三回目ではじめて、なじみになります。 箸袋になまえをつけてくれたり、 「三会め心の知れた帯を解き」 となるわけです。 こうしたことをよく知った上で、客は吉原に行くわけです。

 さて、なじみの客になりますと、また制約があります。 なじみの客は、吉原のほかの女性と遊ぶことが許されません。 これは、吉原でなじみになる、ということは、 夫婦と同じ、夫婦の契りを結んだも同じ、ということなんですね。 これをもし破ってしまいますと、 なじみがありながら、ほかの女性のところへ行ってしまいますと、 罰として、前髪を切られたり、 女性の振り袖を着て、あたりを歩かされたりしたそうです。 また、 離縁状をきちんと書けば、なじみを解消できる、という仕組みがあったそうです。

 「麦畑」の句は、読んでおいてください。

 「歴史」としてまとめた句は、 歴史的なものや、文学作品をもとにしたものなどです。

 「三度目は彼の張良も寝ずに行き」 もうひとつの資料の資料1をご覧ください。 張良というのは、劉邦の作戦参謀を務めたひとです。 その張良が、ある日道を歩いていると、土の橋の上に老人がおりました。 その老人がくつを橋の下に落として、張良に拾ってこいといいます。 張良が拾ってくると、おまえは見所がある、いいことを教えてやる、 5日後の朝、ここに来い、と言われます。 そして、5日後、不審に思いながらも、張良が同じ場所に行くと、 既にその老人がいて、年寄りを待たせるとは何事だ、また5日後に来い、 と言われます。 そこで、5日後、張良は鶏が鳴くより早く、出かけていきます。 ところが、また老人が先に来ています。 老人は、また遅れたのか、もう後はないぞ、といって、また5日後に来いと言います。 これで、3回目ですね。 今度は、張良は、夜のふけぬうちから出てきて、老人をまっていました。 すると、老人がやってきて、よく来た、おまえは将来王様の師となる人物である、 といって、太公望呂尚の兵法書を与えます。 この話しをもとにうたったのが、この句です。

red.ball コーヒーブレイク

 ここで、参加者全員に飲み物とお菓子のサービスをしました。

red.ball 語らい

 基調スピーチをうけて、 30分ほど、参加者一同の語らい(議論)の時間をもちました。 語らいは、資料にある川柳の「意味」を考えるクイズからひろがっていきました。

red.ball

 それでは、資料20ページにある「さて、これは何のこと?」をご覧ください。 これらの句をお読みになって、いったい何のことをよんでいるのか、 おわかりになりましたら、おっしゃってください。

 ……。

 最初の句は、神無月のことをうたったものですか。 正直の頭に神宿る、といいますから。

 はい、そのとおりです。 「正直のこうべ十月軽くなり」 10月は神無月、日本中の神様が出雲の国に集まって、縁結びの相談をしますから、 神様がいなくなるわけです。 この神無月と正直の頭に神宿るとを下敷きにした句です。 もしかすると、 「出雲では十月のこうべ重くなり」 というような句があるかもしれませんね。

 それでは、次の句 「61年目に怖い女でき」 はどうですか。 …。 怖い女というと、何を思いうかべますか。 61年目、60年に1回まわってくるものと言えば、…、そう、丙午のことです。

 どの句でも結構です。 お読みになって、これはこういうことではないか、というのがありましたら、 おっしゃってみてください。 「歴史」のところの句でも結構ですよ。

 20ページの三番目の句ですが、まずもって、よめないのですが。 雨がみっつ、よっつ並んでいるのは、どうよむんですか。 よんでしまうと、何のことかわかってしまうのかな。

 それでは、この句(「同じ字を雨雨雨と雨るなり」)をなんとよむか、 考えてみてください。 ヒントは、雨の字を、全部違った読み方をします。 これ以上のヒントを申しあげますと、 みなさん、すぐにおわかりになると思いますので、ヒントはここまでにします。 さあ、どうでしょう。 …。

 それでは、さらにヒント、雨の上に何か文字をつけることを考えてみてください。 …。

 むずかしいですか。 それでは、最初の字は、雨(あめ)とよみます。 二つ目は、雨の上に春をつけます。 春雨で、「さめ」とよみますね。 それでは、三つ目はなんとよみましょうか。 …。

 五月雨(さみだれ)ですね。

 はい、そうです。 それで、あめ・さめ・だれ、とよみます。

 最後の雨はどうでしょうか。 これは、動詞になります。 ほかのみっつはなりませんが、この言葉だけは動詞になります。 …。

 時雨(しぐれ)です。 ですから、句では、雨る(ぐれる)とよませるんですね。 ということで、 「同じ字を雨雨雨(あめさめだれ)と雨(ぐれ)るなり」 とよみます。

 それで、その句はどういう意味なんでしょうか。

 特に意味というものはないのだろうと思います。 いわば言葉遊びということでしょう。

 「もう一人はいると仮名は足らぬとこ」 さて、もう一人はいるものは、いったい何なでしょうか。 …。

 もう一人、というぐらいですから、人ですね。

 はい、そうです。 ヒントは、人が仲間にはいる、と考えてください。 …。 仮名は、今は五十音といいますが、江戸時代は、いろは、でしたね。

 いろは四十七文字ですから、赤穂浪士のことですね。

 はい、そうです。 赤穂義士のことです。

 「やせこけた死骸があるとわらびとり」 これは、漢文、史記をもとにした句です。 もうひとつの資料の最後のページ、資料10をご覧ください。 後世、水戸黄門が、父から兄が体が弱いので、弟であるおまえが後を継げ、 といわれたとき、兄がいるのにそうはいかない、と答えた、 という話しの背景にあるのが、この話しです。 伯夷、叔斉は、狐竹君の二人の子どもです。 父は、弟である叔斉を跡継ぎにしようとします。 父が死ぬと、叔斉は兄伯夷に後をつぐようにいいます。 しかし、兄は、お父さんの命令じゃないか、といって、これをうけいれず、 国を出ていってしまいます。 弟もまた、即位することなく、国を離れます。 国を出た二人は、西伯という評判の諸侯のもとに身を寄せます。 やがて西伯が亡くなりますと、その息子の武王が、西伯の位牌をかかげて、 殷の肘王を伐とうとします。 そのとき、伯夷と叔斉は、武王の乗った馬を止めて、 父王が亡くなって、まだ葬儀も済まぬうちに、このような戦をはじめてどうするのか、 また、家来が主君を討つというのはどういうことか、と諫めます。 武王の側近たちは、じゃまだ、といって、伯夷と叔斉を殺そうとしますが、 太公望呂尚は、 この人たちは義を知っている人たちだ、といって、二人を逃がしてやります。 その後、武王は、殷の乱を平定し、周の国をたてます。 しかし、伯夷、叔斉の二人は、親孝行の道にそむいたことを恥じて、 周の国の世話にはならなかったのです。 首陽山にかくれて、そこにはえているわらびなど野草をたべて生きていきます。 しかし、やがて餓えて亡くなる、そのときに、資料にあるような詩をうたって、 遂に餓死してしまいます。 という、この伯夷、叔斉の話しをふまえて、この句があります。 これが、うがち、ということなんですね。 歴史上の出来事に対して、想像をたくましくする、こうだったんじゃないかと考える、 言葉の裏側を考える、そうしてできあがってきたのが、こうした歴史句なんです。

 「神代にもだます工面は酒がいり」 これは、やまたのおろちのことですね。 すさのおのみことがやまたのおろちを退治するのに、 八塩折の酒という濃い酒を使ったお話しです。

 「同じ刻限に三人淋しがり」 これは、資料5にあります、三夕(さんせき)の歌をふまえたものです。 「寂しさはその色としもなかりけり槇立つ山の秋の夕暮れ」 「心なき身にもあはれはしられけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」 「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」 という新古今和歌集の三首を背景にした句です。

 資料18ページの真ん中あたりにあります 「田の鳥が沢で立ったで名歌でき」 これは、三夕のうち西行の歌にある「鴫(しぎ)」の字が、 田に鳥と書くことからできた句です。 こうしたことをよく知っていて、川柳がつくられていることがわかります。

 基本的に、ものを知っていないと、よくわからない世界だ、 ということがよくわかりました。 そこで質問なのですが、江戸時代の人たちはこういうことを知っていたのですか。

 川柳をつくったのは、当時の知識層といえる人たちであったと思います。 ただ、たとえば、百人一首などは、遊びとして一般的でしたから、 それをふまえた句などは、庶民にも十分理解された思います。 実際、資料の「歴史」のところにあげてある多くは、百人一首をもとにした句です。

 加えて、先ほど寺子屋の話しをしましたが、 当時の江戸の人たちの識字率は、おそらく世界一だっただろうといわれています。 ほぼみんな、いろはは読めたといわれています。 地方はわかりませんが、江戸は、そうした文化的なレベルにあったようです。

 江戸にいた人たちの多くは、当時の階級、士農工商でいうと、どれになるのですか。

 多かったのは、工、職人さんです。

 その職人さんたちも、少なくとも仮名文字は読めた、ということですか。

 はい、そうです。

 なぜ、職人さんが多かったのですか。

 大工さんが多かったんです。 それは、ひとつに、火事が多かったからでしょう。 また、大工さんは人気の商売でして、実入りもよく、 月に二十日も働けば、十分暮らせたようです。

slide no.022  そうした江戸っ子気質ということでいいますと、 宵越しの金をもたない、というのは、逆に明日はどうなるかわからない、 さきほどの火事のようなこともあるわけで、そうした気分があったようです。 また、とても風呂好きで、清潔だったようです。 吉原で、もっとも嫌われるのは、口臭のひどいひと、という具合でした。 尻っ端折りというのも、江戸っ子の威勢のよさの例としてよくいわれますが、 それもおしりがきれいだったからですね。

 そのスライドにあるようなことをして、吉原でもてたかったのですか。

 いえ、吉原にかぎったことではなくて、みんなこういうことを気にしていた、ということです。

 見栄っ張りということですか。

 はい、まさにそうです。 粋といいますか、おっしゃるとおり、見栄っ張りですね。 自分のことはさておき、人のために何かしてやりたい。 歌舞伎の助六が、まさにそうですね。

 資料19ページの 「とんだ事鼎のなかで酔いが醒め」 というのは、徒然草の句ですか。

 はい、そうです。 徒然草のなかにある話しで、お坊さんがお酒を飲んでいて、 ふざけてかぶった鼎、三本足の器、がとれなくなって、 みんな大笑いしている、どうしようもなくなって、無理矢理とると、 耳や鼻がとれてしまって穴だけになってしまった、というのを題材にした句です。

 18ページにある二条の后というのはどなたですか。

 これは、もうひとつの資料の方の、資料4をご覧ください。 伊勢物語のなかにあるお話しです。 業平と目される男が、 とても手に入れられそうにない女性、これが二条の后なんですが、 その女性を好きになってしまって、駆け落ちをする、 という話しが下敷きになっている句です。 「つれて逃げなよと二条の后いい」 ただ、つれて逃げなよ、などというのは、吉原の女性なんですね。 そういう吉原のことと伊勢物語とをからめたおもしろさをあじわう句ですね。

 川柳の背景にあることを知ると、 それぞれの句に深みがあって、また、広がりがでてくる、 そこにサイエンスへのつながり、サイエンスの味わいがあるのだろうと思います。 ただ、司会の技量が行き届かず、そこまで味わっていただけなかったところがあるかもしれませんが、 いくつかまだ取り上げられなかった資料もありますので、 ぜひ、みなさん、時間がありましたら、あとで楽しんでください。

red.ball 司会挨拶

 司会より、アンケート記入の依頼、同回収、閉会の挨拶を行ないました。 【20:00終了】

red.ball 付録

 江戸の暮らしに関する詳しい資料へのリンクをあげておきます。 ほかにもたくさん資料がありました。 ここでは、ひとつだけにしておきます。

江戸東京博物館

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Last updated May 1, 2008
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