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第9回 東三河サイエンスカフェ 記録
2008年4月3日 開催

第9回カフェ風景1第9回カフェ風景2第9回カフェ風景3

むかし、昔の「東海道」
− 東海道・鎌倉街道・東海道 −
松井 洋文 先生

第9回レポート用カフェ風景1 red.ball 司会挨拶

 司会より、非常時の対応等諸注意、本カフェのすすめ方説明、 ゲストスピーカーの紹介を行ないました。 なお、開始前には、大学内の桜の模様をスライド・ショーで紹介しました。 【18:30開始】

red.ball 基調スピーチ

 松井先生は、パワーポイントを使用し、 版画や文書の資料を紹介、回覧しながら、35分ほどのお話しをしてくださいました。 以下は、同スピーチの内容をまとめたものです。 スライド資料(図表等)は、先生よりご提供いただいたものです。 これらスライドの著作権は、松井先生にあります。 当日のスライド資料は、このほかにもたくさんありましたが、 その一部のみ掲載しております。

red.ball

slide no.001  挨拶。

 東海道といいますと、江戸時代の道路を思いうかべられると思います。 副題にもありますように、古代律令制度のもとでの東海道、 そして、鎌倉時代の鎌倉街道、江戸時代の東海道、現在の東海道新幹線と、 時代々々のイメージがあるのですが、 今日は、古代、中世、近世とみていきたいと思います。

slide no.002  まず、律令制度下の東海道についてです。 東海道といいますと、道路と考えるのですが、 そもそも行政区画として、東海道というものがあります。 ちょうど、北海道というのと同じようなものです。

 スライドにありますように、畿内、都の近くの五つの国と、 北陸道や東山道、東海道、…、という七つの道というのが、 行政区画としてあったわけです。 七つの道は、都から東の方に、北陸道、東山道、東海道、 西の方に、山陰道、山陽道、南海道、とあって、西海道、これは九州ですが、 都につながっていないので、大宰府が置かれていたわけです。

 そうした行政区画としての道、 と同時に、道路としての東海道、都から東の方の海沿いの道、ということですが、 都から、国府をつないでいく道路、という意味もあります。

 その道路にも格がありまして、今日では、東海道は当然メインの道路ですが、 この頃は、山陽道が第一の道路でした。 山陽道は、都と大宰府をむすぶ道路でもありますし、その先には大陸もありましたから、 もっとも大事な道、大路とされていました。 東海道は、中路ということです。

 その道路としての東海道ですが、 都と国府をむすぶ官路、今でいう国道ですね、として整備されておりまして、 およそ16キロごとに駅、江戸時代でいう宿場のようなものです、 が設けられていまして、 中路ですから、馬10頭を常備することが律令、法律で定められていました。 その馬は、役人だけが使えることになっていまして、 役人はその証として鈴をもって行き来していた、ということです。

 律令制の時代は、租庸調、特に庸と調を都まで運ばなければいけませんが、 それを運ぶ運脚(うんきゃく)は、この馬をつかえませんから、 自分の足で運ぶわけです。 そうすると、とても疲れてしまって、 途中で倒れて亡くなるということも少なくなかったようです。

 この頃の道路というのは、どれくらいの広さだったと思われますか、…。 公地公民制といいまして、土地はすべて国のものですから、 道路を造りたければ、好きなように造れたわけです。 したがって、意外とまっすぐで広い道路だったようで、 静岡県では、幅12mぐらいのまっすぐの道路が発見されています。

 都にいけば、朱雀大路、都を南北につらぬくメインストリートですが、 幅74mという具合です。 実用性というより、国家としての威信、外国使節などにみせるため、 という面が強かったと思います。

 その駅ですが、この三河地方には、ここにあげた三つの駅がありました。 細かな位置までは定かではありませんが、 岡崎にふたつと、小坂井あたりにありました。 そして、当時と今で一番違うところは、 大きな川、このあたりですと豊川のような川がありますと、 その川をわたれない、橋がない、ということです。 川があると、それをわたるのに、大きな困難があったということです。

 そこで、渡津(わたつ)の駅から飽海(あくみ)河、今の豊川、 を船でわたるわけです。 小坂井バイパスの下にパターゴルフ場がありますが、 その名前を柏木の浜といいますね。 当時豊川の河口が4キロほどあって、 あのあたりまで海だったのではないかと思います。 そして、そこを船でわたっていたわけです。 それが、この志香須賀(しかすが)の渡しですが、 正確な場所などはわかっていません。 ただ、小坂井にある菟足(うたり)神社に祀られているのが、 三河の国の国造なのですが、その人も、柏木の浜から上陸したといわれていますので、 あのあたりが渡しのあった場所だろうと思います。

 そして、船でわたったこちら側もよく分かっていません。 飽海という説もあれば、牟呂の坂津あたりともいわれています。 そして、古代・中世の紀行文などを読んでいますと、そのわたったところから、 高師山を経て、遠江、今の静岡県の方へ行った、とされています。 それでは、この高師山というのはどこか分かりますか。 ……。

 高師小学校ですか。

slide no.006  はい、この写真は高師小学校にある石碑ですが、勝地高師山とあります。 でも、あのあたり、山ではないですよね。 古代から中世の旅の文章を読んでいますと、高師山というのがよくでてきます。 「富士のねに及ばぬ名のみ高師山高しとみるも麓なるらし」 「昔よりその名ばかりやたかし山いづくも麓峰としもなし」 掛詞ですね。 高いのは名のみ、名ばかり、というわけで、高師山というのは山ではないようです。

 ということで、高師山というのは、高師、天伯あたりの台地をいっていたようです。 もしかすると、二川、その先の山をさしていたかもしれませんが…。

slide no.007  次に、鎌倉時代に話しをすすめていきます。 この時代になりますと、道のとおる場所がかなりかわってきます。

 先ほどの志香須賀の渡しですが、渡し船が2艘あったのが、 交通量が増えて4艘にふやされます。 ところが、武士の時代になりまして、 何千人という武士が移動するということになりますと、 2艘や4艘の船ではとうてい運びきれないわけです。 それでは、例えば、馬でそのまま河をわたってしまおうとなりますが、そうすると、 上流の方にうつっていかざるをえない、ということではなかろうかと思います。

 その道が、この鎌倉街道と呼ばれている道です。 二川の山の奥の方に、雲谷というところがあります。 そこの普門寺というお寺から山を越え、多米の校区に出るという道です。 その先は、岩崎から、朝倉川は小さな川ですので、渡しなどがなくてもわたれまして、 赤岩寺、乗小路、石巻、豊川へというルートです。

 この地図でいいますと、普門寺から多米の手洗(てあらい)まで、 直線で1キロぐらいで、現在の普門寺は麓の方にありますが、 当時はもっと山の上の方にありまして、 そこから岩崎の方へ、くだっていったということでしょう。 山で険しいですが、時間はさほどかからない道になります。

slide no.008  このあたりには、源頼朝公、頼朝さんにまつわる伝説が残っています。 普門寺というお寺は、その頃、他のお寺ともめ事があって、焼けてしまって、 それを再興したのが、この化積上人という人なのですが、 この人は頼朝さんの叔父さんという説もあるような、 頼朝さんにとても近しい人のようです。 この写真でいいますと、こちらのこの山の上にお寺があって、 その先下っていったということですね。 ちょっと険しいことは険しい道ですが、さほどではなかったということでしょう。

slide no.009  さて、その下りていった手洗というところですが、日吉神社という神社があります。 この写真のように、その神社に池がありまして、山を越えてきた頼朝さんが、 この池で手を洗ったという言い伝えのある場所です。 現在の手洗は、多米、岩崎町の奥の、奥の方で、その先はもう道はない、 というところでして、その神社の周辺、10軒、20軒くらいの集落ですが、 鎌倉時代にはメインストリートだった、ということですね。

 ちょうど先週の日曜日が、この神社のお祭りで、 山ツツジがとてもきれいに咲いていました。 同じ頃に、普門寺にも行ったのですが、同じように山ツツジが咲いてました。 山の向こうとこちらで同じ時期に山ツツジが咲いているんですね。

 余談ですが、ここには古墳もあります。 あまり知られていませんが、横穴式石室、朝鮮式の石積みのものです。

slide no.010  こちらは鞍掛神社です。 手洗から下りてきたところ、岩崎町内にあります。 この石かどうかわかりませんが、頼朝さんが馬をおりて休むのに、 鞍を掛けたということで、この名がつけられたということです。

 こちらの写真は、まだ桜が咲いていませんでしたが、 駒止めの桜、頼朝さんが馬を止めて、桜が咲いているのを見た、という桜ですね。 ですから、頼朝さんは、ちょうど今の時期にこのあたりをとおった、ということです。 この場所は、近くにお城のような建物のゆめの子幼稚園があるあたりです。 ホタルでもよく知られているあたりですね。

slide no.011  こちらの写真では、この建物が東陽中学です。 その奥のこの山を越えて、手洗におりてきて、 この左手の方へ通っていったということです。 この写真のこのあたりが、葦毛湿原です。 ところで、この葦毛というは、普通なんと読みますか、…。 そう、「あしげ」ですね。 頼朝さんが乗っていた馬が、山を越えてきて、 そんなに険しいところではないのですが、 ちょうどこのあたりで、その馬が死んでしまったんですね。 それで、ここに葬ったのですが、その馬が、葦毛の馬だったので、このあたり、 葦毛という地名になっている、という伝説ですね。

 多米の方にも、頼朝伝説があるのですが、 時間の関係もありますので、今日はふれません。

 そうはいってもやはり山を越えるのはしんどい、ということで、 火打坂をまわる方の道ができてきます。 火打坂は、参議雅経の歌にも詠まれているほどの場所です。 山の南側、今の国道1号線と同じようなところを回り込む道になってきます。 そうしたときにやはりポイントになるのは、 豊川に橋ができたかどうか、ということで、 鎌倉時代に橋ができたという資料もあるようなのですが、よくわかっていません。 確実なのは、戦国時代ということです。

 戦国時代には、いくつかの道路が使われていたようです。 このスライドにあげたのは、 潮見坂をとおっていく東海道と、嵩山をとおる姫街道です。 戦国時代は、姫街道の方がよく使われていたみたいでして、 今川義元も姫街道をとおっていたようです。

 ここからは、江戸時代の東海道のお話しです。 このあたりになりますと、みなさん、なじみのものも少なくないと思います。 新居の関所は、吉田藩の飛び地です。 ですから、新居の関所の役人は、吉田藩の人です。 二川宿、吉田宿ときまして、吉田宿は、ここにあげた歌にも詠まれているように、 女遊びをする町として知られていたところです。

slide no.016  この当時の東海道のなごりとしましては、まず、一里塚です。 東から豊橋に入ってきますと、まず、一里山、細谷の国道1号線沿いにあります。 ここは古い形で残っていまして、マウンド状になっていて、 榎や松の木が植えられています。

 こちらの写真は、二川の宿に入るところで、ここに一里塚の道標があります。 こちらは、我が家の近所、下地の一里塚跡の道標です。 一里塚ですから、おおよそ4キロごとに、 一里山、二川、山中橋、下地、とありました。 かなり正確に一里ごとに設けられています。

 次に、松並木です。 御油の松並木などが有名ですが、下地にもあったのですが、 今はもう1本もありませんね。 飯村にもあったのですが、松食い虫にやられてしまったということです。

 本陣です。 二川の本陣が有名ですが、 吉田にも本陣はふたつありまして、清須屋と江戸屋という名前でした。 豊川をわたったところに、清須町というのがありますが、 あのあたりは、清須屋のつくった新田があったところで、その名前が残っています。

 惣門。 吉田の宿は、東西2カ所ありまして、今は復元されたものがありますが、 東八町の交差点のところと、旧の市民病院のあったあたりです。 そもそも、惣門と惣門の間が宿場でして、朝6時に開いて、夜10時に閉まります。 それ以降は、とおれないということです。

 文学などにも当時の様子が残っています。 ここに古い文書を持ってきておりますので、回覧します。 東海道中膝栗毛、弥次さん喜多さんの話しです。 二川から吉田に入ってくるところでは、坊主持という話しがでてきます。 二人で荷物を交代にもつのですが、お坊さんがきたら交代、という遊びです。 そして、ちょうど岩屋観音あたりを歩いているとき、3人連れの尼さんに出会います。 いっしょに旅を、と調子のいいことを言っていると、ふいと横道に行ってしまった、 というような話しがでてきます。

第9回レポート用カフェ風景2  東海道五十三次、広重の風景版画です。 これは復刻のものですが、まず、二川です。 柏餅屋が描かれているのですが、二川で有名な柏餅屋ってご存じですか。 知らないですよねぇ。 これ、二川ではないんです。 広重が間違えたのか、あるいは、二川に何もなかったから、仕方なくそうしたのか、 いずれにせよ、この柏餅屋さんは、もっと東の、静岡にあったもののようです。 二川の人は、もっと怒ってもよさそうですね。

 吉田の方は、みなさんご覧になったことがあると思いますが、 お城があって、橋がある、という画です。 先ほども言いましたように、この時代には、川に橋ができてきているのですが、 東海道では、ほとんどの川に橋はありません。 東海道で橋があって有名なものは、吉田の橋と矢作の橋ぐらいです。 ですから、この橋は、本当に有名な橋だったんです。

 戦国時代に吉田の城主であった酒井忠次が、関屋に橋をかけます。 最初は土の橋だったんですが、増水すると簡単に流されてしまうので、 この画のように木の橋になります。

 その吉田の橋の位置なんですが、この画のようですと、 お城のすぐ近くということになります。 今の吉田大橋は、東京オリンピック前のインフラ整備でできたものですが、 その前はどうだったか、ということです。

 この現在の地図で、こちらが吉田大橋ですが、これでないとすると、 こちらの豊橋(とよばし)かということになりますが、実は、豊橋でもありません。 この地図に、当時の東海道を書き込んでいきますと、松葉公園のところから、 湊町神明社の前をとおって、そこからまっすぐくると、今の豊橋なんですが、 そこをちょっとまがって、少し下流、50mくらい先に当時の橋がありました。

 この吉田の画をよく見ますと、ここに森があります。 お城と橋の間にあるように描かれています。 ちょうど、下地のあたりになります。 実は、わたしは下地の豊麻(とよあさ)神社のむすこなんですが、 この広重の画に描かれている森は、うちの神社の森だろうと思います。 うちの神社には、 「とよはしの巨木・名木」100選にも指定されている木もあるんですが、 神社の由来では、江戸時代前にはつくられているようですので、 うちの森が描かれていると思っています。

 ただ、広重がこの画をどこから描いているか、視点がどこにあるか、 ということを考えますと、どう考えても、今の市役所の上あたりから、 とても高い位置から見ている画なんですね。 とすると、当時、それはありえませんから、実際に旅をしてはいるんでしょうけれど、 豊橋といえば橋だろう、ということで、お城があって、橋を描いて、 このあたりに森を描いておけば、というかなりデフォルメしたものと思います。

slide no.020  吉田の宿の詳しい地図ですが、曲尺手(かねんて)は有名ですね。 こう曲がっていますから。 下モ(しも)町、今の八町の交差点のところですが、 ここでは、あわせて6回曲がるんですね。 ちょうどお濠があったので、 それをさけるのに、6回曲がる、下モ町の六曲りと言われていました。 通りは、この地図のとおり、今では民家になってしまっていますが、 ちょうど、ここに「八町もちや」というお餅屋さんがありますが、 そちらで古い資料を見せていただいたところ、 このようなルートになっていたようです。 この最初の角のところに常夜燈がありますが、 そこから東海道とわかれて北の方に行くのが、本坂、姫街道につながっていきます。

 冬場に、豊橋から富士山が見えたというニュースをやっていたりしますが、 富嶽三十六景の東海道吉田の画をご存知ですか。 こんな画です。 不二見(富士見)茶屋となっています。 この富士見茶屋、どこにあったか聞いたことがありますか。 …。 下地の少し先に、小坂井までの間に、富士見茶屋があったといいます。 国府高校から富士山が見える、という話しがありますが、 山と山の間に少し見えるていどらしいですので、 この画のように、はっきりと見えるというのは、無理があるように思います。

slide no.022  ええじゃないか、です。 ええじゃないかが豊橋発祥ということがわかったのは、つい最近のようです。 20年ぐらい前までは、名古屋発祥のように言われていましたから。 最初の牟呂というのは、吉田の宿の郊外でしたし、 その牟呂から吉田に広がって、新居へ、 新居は先ほども言いましたように、吉田の飛び地でしたから、 それから、東海道を東西に広がっていった、ということです。

 ただ、このあたりでは、ええじゃないか、ええじゃないか、とはやっていません。 おかげ、おかげ、とやっていたようです。 京都に入ってから、ええじゃないか、とやりだしたようです。 ご静聴ありがとうございました。

red.ball コーヒーブレイク

 ここで、参加者全員に飲み物とお菓子のサービスをしました。

red.ball 語らい

 基調スピーチをうけて、 45分ほど、参加者一同の語らい(議論)の時間をもちました。 以下は、語らいで出された意見などをまとめたものです。

red.ball

 吉田の橋が昔と今とでちがっていた、というお話しが興味深かったです。 最近、道路特定財源のことなどが話題になっていますが、 昔の道路はどのようにつくられ、管理されていたのですか。

 道路を誰がつくったかということでは、 結局農民などがかりだされて、つくらされていたんでしょう。 豊川にかかる橋の掃除でも、担当する町が決められていたようです。

 豊橋というのは、「とよはし」なんですか、「とよばし」ですか。

 わたし自身、橋のたもとに住んでいますが、橋は「とよばし」ですね。

 地名の方については、江戸時代、吉田藩というのがふたつありました。 ここ豊橋と、愛媛県、当時の伊予の支藩である吉田藩です。 明治になって、版籍奉還で、吉田がふたつあるのはまずい、名前をかえなさい、 ということになって、当時もっとも栄えていたのが関屋でしたので関屋か、 吉田の昔の名前で今橋か、橋にちなんで豊橋か、と考えていたら、 藩知事の任命書類に、豊橋藩知事と書かれていたので、 そうなってしまった、ということだそうです。

 姫街道のお話しも聞かせていただけますか。

 姫街道といいますと、お姫さまがとおる道のように思われがちですが、 もともと東海道の脇道でして、ひね街道とよばれていたものです。

 ひね、というのは古いということですね。

 新居の関所がきびしい、お姫さまでも着物をぬがされて調べられて、 というのがいやだ、ということで、本坂の方、だから、本坂道といったりもしますが、 女性が多く、こちらの道をとおったものですから、姫街道とよばれるようになった、 ということのようです。

 豊橋には、曲尺手とか、鍛冶町、呉服町と、古い、豊かな町名があって、 すばらしいと思います。

 典型的な城下町なんですね。 曲尺手のように道を曲げるのは、 近くでは、新城にもありますけれど、軍事的なものなんですね。 いざ戦争ということになりますと、 まっすぐな道では、敵軍が一斉に来てしまいますので、わざと曲げてある。 そして、曲尺手にもお寺さんがありますよね、…、竜拈寺ですか、 大きな建物ですから、そこに兵隊さんを置いておいて、待ちうけよう、 という軍事的なつくり、目的ですね。

 曲尺手というのは、 ワープロでも「かねんて」と入力して変換できるぐらいですから、 ここだけではなくて、いろんなところに地名として残っています。

slide no.020  このスライドにある赤い文字の町名は、表町といって、通りぞいの町で、 青い文字が、裏町で、通りに面していない町です。 表町12町、裏町12町です。 例えば、この下モ町で、戸数24軒、127人という数字が残っています。 1720年代です。 江戸時代の中頃ですね。 ですから、結構「あきあき」、まばらな感じだったのかなぁ、と思います。

 お話しのなかに火打坂という地名がでてきましたが、何か由来とかはあるのですか。

 先ほどお回しした富嶽三十六景の画に、「吉田ほくち」と描かれています。 ほくちというのは、火をつけるための道具のひとつなんですが、 吉田は、そのほくちで有名だったようです。 そのあたりからきているのかもしれません。

 建築では、柱や梁などの隅の部分に斜め45度にいれるすじかいのようなものを、 火打梁といいます。 ちょうど山越えの道に対して、ショートカットする、 斜めにとおっている道だから、火打で、火打坂となった、 という話しを聞いたことがあります。

 あのあたりで、火打ち石になるチャートが採れたから、という説もあります。

 高師山というのは、本当にどのあたりだったのでしょうか。 たしかに高師小学校のあたりは、まわりより少し高くなっていますから。

 たしかに二川の山の上から見れば、高くなっているように見えなくもないですが、 まあ、天伯・高師原台地のあたりをさしているのだろうと思います。

 白須賀にも高師山というのがありますね。 お話しのなかで、二川の先の山とおっしゃっていたのと符合します。 高師小学校の高師は、古くは高葦(たかあし)だった、という説もあります。

 この頃の吉田城の位置付けといいますか、 役割というのはどのようなものだったでしょうか。

 すでに軍事的な役割というのは、少なくなっていまして、 城下町というのは、一般に経済の中心地という位置付けです。 吉田の場合は、港からお伊勢さんにおまいりに行って、 帰りには、女遊びをする、というような町だったようです。 伊勢まいりの人がみんな船でわたってしまうので、 名古屋の方から訴えられて裁判になった、という記録も残っているようです。

 吉田城には、天守閣がなく櫓しかありませんが、 もともと天守閣という明確な定義があったわけではありません。 そうした意味で、吉田城の櫓は、広重の画にもありますように、 吉田といえば城と橋、というように、立派なものだったと考えてよいと思います。

 鎌倉街道が山を越えてくる道だったというお話しでしたが、 仏坂の方でもそうですが、 どうして、そうした山の道をわざわざとおった、造ったのでしょうか。

 たしかに、山を越えるより火打坂をまわった方が楽だと思いますよね。 ただ、どうも道をまっすぐにする、という考えがあるようです。 箱根八里の箱根の道でも、わざととおりにくい道にしている、 それが実はまっすぐな道、というようなことがあるようです。

 高校の授業では、こういう興味深い話しというのは、とりあげられるのですか。

 生徒の興味はそれぞれですので、 みながみな、こうした話題、日本史の授業に興味をもつとは限りませんし、 自分の興味のあるところをしっかり学んでいけば、 それはそれでよいのだろうと思います。 授業では、こうした内容は、いわゆる余談になるのでしょうが、 余談をうまくしてあげることで、 重要なことを効率よく身につけていってくれるような授業をしてあげたいと、 心がけてはいます。

 ええじゃないかの話題がありましたが、 映画「早咲きの花」でもとりあげられていました。 先生の学校は、そのロケ地になっていたと思いますが、 何かおもしろいエピソードなどありますか。

 おもしろいかどうか、ハンテンボクのところで撮影をしていたんですが、 ちょうどその日、PTAの会合かなにかがあって、 途中で車が駐車してしまったんですね。 それで、わたしは駐車している車をどかさせる係でしたね。

 「早咲きの花」の石碑ですが、「早咲きの花が散った美しく」と刻まれています。 今ある石碑は新しいもので、以前は古いものがありました。 それで、その句なんですが、もともとは、 海軍工廠の爆撃とは関係のないもののようですね。 それと、実は、生徒たちも、海軍工廠で自分たちの先輩が働いていたことを、 あまりよく知らないようです。 あの石碑は、いったい何、という感じですから。

 東の惣門、下モ町に曲りがあって、 それはお濠との関係から、というお話しでしたが、 西の惣門の方には、お濠はあったのですか。

 西の惣門は、坂下町といっていたところ、 現在の復元の惣門があるところの少し北側にあったようです。 ですから、曲りにはなっていないようです。 東の惣門も、 このスライドのように、今あるところとは少し違ったところにありました。

 惣門というのは、いつも役人がいたんですか。

 そうです。 門の横に番所小屋があって、常時、役人がつめていました。 それで、10時になると門が閉まってしまいますので、 惣門の外側には、遊女屋がならんでいたわけですね。

 豊橋では、みちしるべがなくなっていますね。 名古屋などでは、みちしるべを復元している地域があったりするのですが。

 わたしも好きで、グループで街道を歩くことがあります。 飯田まで別所街道を8日間かけて歩いたりしました。

 東の惣門から北の方へずっと行けば、 別所街道で、信州の飯田までつながってます。 街道を歩く人、多いみたいですね。 インターネットなどでも、たくさんでてきます。 わたしもリタイヤしたら、旅人に、と思っています。

 下モ町の曲りなんですが、今のどこにあたるのか、よく分からないのですが…。

 今は、家がたってます。 このスライドの地図の青いところは、今、実際に家がたっている、 ということですから、今、どこにこの曲りくねった道があったか、 というのを想像するのはむずかしいかもしれませんね。 当然、このお濠も、今はありませんから。

 一度、この地図をもって、現地を歩いてみるとおもしろいでしょうね。

 豊川の西明寺の近くに住んでいまして、 今日のようなお話しに興味があって、はじめて参加しました。 去年、三重県の関宿にあそびにいったのですが、 街道の建物などを上手に保存してありました。 お金もかかってはいるのでしょうけれど。 今日のお話しをうかがっていますと、豊橋ももっと上手に保存していけばと思います。

 二川はやられてますけれど、この吉田の宿は、全然、のこってないですね。 わたしの実家の下地の方は、いくらか昔の風情がのこっていますが…。 お住いの国府のあたりにつながる道としては、 東海道より、本坂をとおってくる道の方が古くから使われていたと思います。 東海道はどうしても橋の問題がありましたから。

 それと、西明寺ですが、 明治に近代医学を日本に紹介したベルツ博士の奥さんの実家が御油だったことから、 ベルツ博士の墓碑がありますね。

red.ball 司会挨拶

 司会より、アンケート記入の依頼、同回収、閉会の挨拶を行ないました。 【20:00終了】

red.ball 付録

 三つの道に関する詳しい資料へのリンクをあげておきます。 ほかにもたくさん資料がありました。 ここでは、ひとつだけにしておきます。

豊橋市美術博物館:体験学習「とよはし歴史探訪」には、 本カフェと近しい話題もとりあげられています。

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Last updated June 30, 2008
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